(幼な子のように・・・)

(幼な子のように・・・)
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ホープセンターでは、7歳の娘と3歳の息子に、イエス・キリストの生涯を描いたビデオを見せることがあります。
イエスがイスカリオテのユダに裏切られて、十字架への裁判を経て、くぎ打たれて磔になる場面がクライマックスなのですが、娘はそれを見て、からだを震わせ、涙を流して私に言いました。
「イエス様は何も悪いことをしていないのに、どうして十字架につけられるの!?」
以前、同じような年齢の子供にイエスのビデオを見せたときにも、同様な反応でした。
「どうして、イエス様は十字架なの!何も悪いことをしていないのに!」
私は、それを見て、子供は純粋に善悪を判断できるのだと思いました。
それが、大人になると、同じビデオを見ても、同じようには感じなくなるようです。そして、理屈ばかりが先行して、本質を知っていても、それを自分で覆しながら、何か他の理由を探します。
イエスは、私たちの罪の身代わりとなって十字架刑を受けたのです。彼には罪がないにも関わらず、罪びととなって、その命を捧げました。
しかし、イエスは三日後に復活しました。
これもまた、子供にとっては、何の問題もないハッピーエンドなののですが、大人の心になると、反応は様々で複雑です。
聖書にはこのように書かれています。
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「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、『幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない』。そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。」(マルコ10章13~16節)
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この「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」というところが重要であると思います。
私たちも、かつては、物事を正しく判断できる「幼な子」であったのです。私たちは大人になって分別を知ったのではなく、実は、それを失っているのです。
世間体、体面、メンツ、体裁、人の目、近所の目・・・
そのようなものに支配されて生きていると、私たちは、本質は知っていても、まるでその逆のような生き方をしてしまうものです。
本来、私たちは、「赦しあい、助け合い、愛し合う」存在でした。たしかに、喧嘩もしますが、その直後に手を携えて遊ぶこともできたのです。(現役の幼稚園児のように!)
しかし、大人になると、そういうわけには行きません。話し合いは、いつまでたっても平行線、水掛け論、相手のみに問題の原因があると言い続けるのです。ですから、真理に生きるとは、それらすべてのの体面を捨てるという勇気が必要なのです。
イエスは2000年前に、人間の神髄、あるべき姿を教えておられました。それが、この御言葉だったのです。
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「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」
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私も十分に「分別を忘れてしまった」大人ですので、この真理である、主イエス・キリストの言葉に対して、遜りたいと思っています。

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